なんだかんだでもう30手前まで来てしまった。そして15年近くダラダラと適当に音ゲーをやってきてしまった。まぁそんな適当さ加減が自分の取り柄と言ってしまえば少しはやってきた甲斐があると思えるが。
動画投稿とかブログとか情報発信もして*1それなりに知名度もついてきたし、ブログもなんだかんだ1日100viewは超えてるからエッセーの1つ書いてもバチは当たらんだろう。何より新年度始まったし何か1つ新しいことを始めようと思った際に書くのが好きだったからやってみるかと思った次第だ。*2
そんな感じで、音ゲー生活を15年やってきて感じてきたことや今話題になってることに触れながら、クソみたいな自分の日常をつらつらと記してこうと思う。語彙力不足ゆえ読みにくい文章で申し訳ないが、お付き合いいただければ幸いだ。
なんとなく続いたらタイトルでも考えられればと思う。
さて、前語りはこれくらいにして本題に入ろう。
「クソ」という言葉は便利だ。クソゲー、クソアニメ、クソドラマ、そしてクソ譜面。自分にとってつまらなかったりストレスを抱えるものに対し、怨嗟のこもった侮蔑の言葉を連ねることで自身の浄化を試み、大抵の場合はスッキリする。
かく言う自分もそうだ。特にクソ譜面なんかをやらされた時は「こんなの譜面に入れるなバカカス運営」と心の中で思いながら、最低限のスコアタだけして「二度とやらない」フォルダにブチ込んでおく。*3過去に1回だけどうしても許せない譜面があってTwitterで呟いたらまぁまぁ叩かれてプチ炎上したが、ゴミとか希釈なしのストレートそばつゆレベルの不快ワードを書いたのだから当たり前だ。今では反省している。
ところで、この前そんなTwitterで「あなたにとっての"クソ譜面"を教えて欲しい」と募集しているツイートを見かけた。周辺ツイートを漁っていたら音ゲーマー特有のいつものプチ議論に発展していたが、1つ共通していたのは「自分が出来ない譜面を"クソ譜面"と呼ぶな」だった。
これを別コンテンツで言い換えれば「クソ映画は最後まで観てから語れ」「クソゲーであっても文句言わずエンディングまでクリアしろ」……そんなところだろうか。なんか「クソを最後まで見つめ続けなければ"クソ"を語る資格はない」みたいな感じが伝わってちょっと面倒くさいなと思う。
たとえ最後までやってなくても、やっていて時間の無駄だと感じたりストレスを強く覚えたら「こんなん出来るわけねぇだろゴミ譜面!」とさっさと吐いてしまう方が日常生活に尾を引かないし、Twitterという即席拡散ツールで「これクソです!!」と大声出した方が、少なくとも本人は気持ちいい。自分が上記のようにやらかした時も最初はこんな気持ちだった。
しかしインターネットに"クソ"をブチ撒けようとした時、人々が求めているものはそんな水分多めの形態らしからぬ"クソ"(以下「汚いクソ」とする)より子どもの頃からよく見るイラストのような理想の"クソ"(以下「綺麗なクソ」とする)だ。不思議とストレスが湧かず、むしろ愛でたくなる。
その1つの結果というか形として表れているのは、毎年最もクソだったゲームを選ぶ「クソゲーオブザイヤー」だろう。「このゲームやってて非常にイライラする」と言った負の感情を、クソを穴の1つ1つまで凝視しつつ「こんなゲームは二度と出てきて欲しくない」という願いと共にを巧みな言葉遣いに乗せ人々を魅了する。ニコニコ動画で最も再生数が多いのは430万と、人は少なからずクソに興味があるのは確かだろう。
それで、汚いクソと綺麗なクソは普段分別されてるわけでなく「クソ」と十把一絡げにまとめられるが、*4そこは人間の本能なのか、汚いクソを見た時に一瞬でもストレスが溜まる。不快なものもとい不快な表現というのは人間見たくないものだ。
特に音ゲーなんかは特殊譜面がまぁまぁあるためやり込む過程でクソを好む人が少なくなく、好きなものをクソと呼ばれたらたまったもんじゃないだろう。そんな経緯もありクソ譜面と安易に発言しようものなら炎上しやすいのではと邪推してしまう。
ここまでクソクソばかり言って申し訳ないが、ここまで考えて思ったのは「クソ譜面は"はいクソ"という前にもっと言葉にするのが理想じゃないか」だ。
確かに汚いクソというのは緊急時なんかは仕方ないし、溜めすぎて血液にクソが混ざり臭くなるくらいなら出してしまった方が身のためだ。だが汚いクソは外見からして相手どころか自分ですら不快にしてしまう。所詮は汚いクソだ、見ていて気持ちよくはなれないだろう。(そんなクソすら好きな人の話は置いておく)
しかしクソをやり込むという行為を経て煮詰め固め、ありったけの飾りつけをし綺麗なクソとして展示する。非常にストレスのかかる行為だし非生産的だ。だが出し切った時のカタルシスは、汚いクソの何十倍も昇華される。所詮ただのクソなのに、扱いが全然変わってくるのだ。どうせなら綺麗なクソを見たいのは人の本能ですら思えてくる。
ただ、ここで音ゲー特有のめんどくささがチラついてくる。
なんか「言葉にしにくい」のだ。
ただでさえ音ゲー同士の日常会話でさえ該当部分を説明するのにまぁまぁ時間がかかるのに、それを「クソ」を語るために割こうとするものならかなりの時間を割くことになるだろう。そこに「人が共感するような『クソ』」となれば猶更だ。ものすごく面倒だしさっさと「汚いクソ」として流してしまった方が気がラクになる。
つくづくホントに音ゲーは「話しにくいな」と思うが、これは別の機会にしよう。
まぁそんなものだから自然と「〇〇はクソ!」「わっかる~」くらいの、つぅかぁレベルの会話になるわけだが、これに綺麗なクソを期待するのは無理があるだろう。現状クソ譜面は「クソ譜面」でしかないのだ。人間が排便した時にいつも綺麗なクソが出るのだと期待する方が間違っているのだ。綺麗なクソを発掘したいのなら「クソゲーオブザイヤー」のように同好会を作ってクソを見つめる会を作った方がいい。
クソはどうせクソだし適当に扱うのが身体にいいのだよと思いつつ、でもやっぱりクソを凝視してしまう自分がいたのだった。
……それにしてもなんで初回からこんな話題にしたんだろうか。クソである。